屋台
屋台の起こりは江戸時代といわれています。
しかし、いずれも車輪がついていない据え置き型だったみたいですね。
自由な場所で商売が出来たのかどうかも調べてはいませんが、人気のある場所というのはあったのでしょう。
現在の屋台の基となったのは、戦後の闇市など戦災でお店を失った人が始めたのが起源とされています。
その後、東京オリンピックを契機に戦後色を残したものや非衛生的なものを排除しようと法律で規制されてしまいました。
しかし福岡では規制を受けた時に、組合などを組織して粘り強く活動して既得権益として残す事ができたそうです。
是非、福岡以外でも美味しい屋台を復活させてほしいと思います。
が、意外にも様々な問題を抱えていることもあるようです。
出店側のマナーの悪さが治安の悪化に繋がると考えているのは地域住民であり、自治体の方は観光客で賑わうために、なんとか残したいのです。
確かな情報では無いので、誤解を生むかもしれませんが、あまり立ち寄りたくない場所が近くにあるのは確かです。
酔っ払いが集まっているわけですから、当然、トラブルもあるでしょうし、屋台の後はゴミだらけということもあるそうです。
なんとか穏便に歩み寄りが出来ればいいのですが、風物詩だからと言って、実体を調べずに規制するのは何とも不可解ですよね。
屋台ファンは全国にいるでしょうから、規制の中で生き残ることも屋台マーケティングだと思います。
夏祭りの屋台のこと
夏祭り。
その響きは、大変魅力的なものである。
お祭りというのはいくつになっても心の躍る言葉だ。
ビールを飲みながらじゃがバターを食べる。
子供たちのヨーヨー釣りをちょっと眺めたりする。
特に目的もなくぶらぶらするだけで、夏をきちんと体感した、という心持にさせてくれる夏祭り。
なんだかんだと毎年どこかしらの夏祭りには顔を出しているが、その中でひとつだけ、どうしてももう昔と同じように接することができないもの、というのがある。
夏祭りに限らないが、それは屋台のあんず飴である。
私は、全ての屋台の中であんず飴の屋台が一番好きだ。
昔からそうだ。
そしてそれは、今でも変わらない。
けれども、心から愛しているのに、わたしはもうあの出店を訪れることができないであろう。
理由はなんてことない。
じゃんけんである。
あんず飴に限らず、チョコバナナやりんご飴なんかの、棒に刺さったものにありがちなのが、じゃんけんで勝ったらもう一本という仕組みである。
買ったらもう一本、選ばなくてはいけない。
別に欲しくもない余計な一本を人前で選ばなくてはいけないという苦痛。
じゃんけんに勝とうが勝つまいがもう一本ただでもらいたいためにそこにいる、と思われたらどうしよう、という危惧。
そんな、おそらく誰一人として気にもかけていないであろう瑣末なことを気にして、私は大好きなあんず飴を食べることができなくなってしまったのである。
他愛ない、むしろ楽しいであろうはずのじゃんけんを、屋台の主人とすることができない。
もう今や、じゃんけんのついてこないあんず飴屋なんてほとんど存在しないので、きっとこの先も私はあんず飴を買うことができないであろう。
あの、涼しげで透明な水あめのを被った、真紅の美しいあんずのコントラスト。
眺めることしかできないと思うと、ようよう憧れが切ないほどに身にしみるのである。